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十一月五日 受取票の裏側

2026年11月05日 21時50分

あなたの落とし物、預かっています

十一月五日 受取票の裏側

最初に見つけたのは、弟の財布の中だった。

弟が死んでから、三週間。

遺品の整理をしていると、カードの間から細い紙が落ちた。

〈お預かり品 腕時計 一点〉

〈受領済み〉

その下に、弟の署名があった。

知らない保管所の受取票だった。

腕時計は、遺品にはなかった。

私は紙を裏返した。

鉛筆で、小さく書かれていた。

〈まだ受け取っていないなら、署名しないで〉

*

弟の死因は、転落だった。

自宅マンションの非常階段から落ちた。

なぜ夜中にそんな場所へ行ったのか、分からなかった。

部屋には、誰かと争った痕もなかった。

ただ、食卓に置かれたメモに、こうあった。

〈返せば終わると思った〉

警察には、仕事か金銭上の問題を抱えていなかったかと聞かれた。

私は何も知らなかった。

腕時計の受取票を見つけて、初めて、これかもしれないと思った。

記載された電話番号へ、連絡した。

「弟が、そちらで腕時計を受け取っています」

女は弟の名前を聞いた。

それから、少し待つように言った。

受話器の向こうで、引き出しを開ける音がした。

「はい。お引取りになっています」

「どんな時計ですか」

「お答えできません」

「弟は死んだんです」

女は黙っていた。

私は受取票を見た。

「この紙、返せばいいんですか」

電話の向こうで、物音が止まった。

「返すとは、どういう意味でしょうか」

「弟が返せなかったなら、私が」

「その用紙は」

女の声が、少し低くなった。

「どちら側をご覧になっていますか」

*

私は電話を切った。

表を見た。

品名。

受付番号。

弟の署名。

裏には、鉛筆の注意書き。

その文字の下に、別の筆跡が増えていた。

〈あなたも、見えますか〉

私は紙を置いた。

部屋に、一人だった。

机の上には、さっき使ったボールペンがあった。

私はそれを持ち、震える手で書いた。

〈誰ですか〉

しばらく待った。

何も起きなかった。

もう一度、紙を持ち上げた。

文章は、そのままだった。

私は弟の筆箱を探した。

中に、短い鉛筆が一本あった。

紙へ、同じことを書いた。

〈誰ですか〉

芯が紙を離れた瞬間、先ほどの文字が薄くなった。

その下から、新しい文字が浮かんだ。

〈指輪を受け取った者です〉

*

相手は、妻の結婚指輪を受け取った男だった。

返したあと、自分の薬指がなくなったと書いた。

私は受取票を見つめた。

冗談だと思いたかった。

〈これは、どこにつながっていますか〉

返事は少し遅かった。

〈分かりません。昨日、別の人が返事をくれました〉

文字が重なるように、次の文章が浮かんだ。

〈今、三人います〉

別の筆跡だった。

〈あなたは何を受け取りましたか〉

私は弟のことを書いた。

腕時計。

非常階段。

転落。

返せば終わると思った、というメモ。

書き終えたあと、長い間、返事がなかった。

やがて、一行だけ現れた。

〈その時計の人と、前に話しました〉

*

鉛筆で書いた文章は、しばらくすると薄くなった。

だが、完全には消えなかった。

紙を斜めにすると、細い文字が何重にも見えた。

私は机の明かりを近づけた。

ずっと前から、誰かが書き続けていたらしかった。

〈何と一緒に落ちていたか、聞いてください〉

〈返事をすると、つながります〉

〈こちらへ来るまでの道順です〉

そして、紙の端に、弟の字があった。

〈時計を、元の時刻へ戻してはいけない〉

私は息を止めた。

その下に、もう一行あった。

〈階段は、下りているように見えるだけです〉

*

私は鉛筆を握り直した。

〈弟は、最後に何と言っていましたか〉

返事が来た。

〈返しに行く、と〉

〈止めました〉

〈でも、自分では止まれないと書いていました〉

私は紙から顔を上げた。

弟が腕時計を受け取った日付を見た。

十月十二日。

亡くなったのは、翌日だった。

裏の注意書きは、あの夜にもあったのだろうか。

弟も、この紙へ書いていたのだろうか。

一人で、誰にも言えずに。

新しい文字が浮かんだ。

〈その紙は、誰にも渡さないでください〉

続いて、別の筆跡。

〈時計は、今どこにありますか〉

私は答えた。

〈分かりません。遺品にはありませんでした〉

書いた直後、玄関の呼び鈴が鳴った。

*

インターホンに、灰色の制服の女が映っていた。

手に、細長い封筒を持っていた。

「保管所です」

私は返事をしなかった。

「お電話の件で、伺いました」

受取票の文字が、急に濃くなった。

〈開けないで〉

女がカメラを見上げた。

「お預けした用紙に、誤りがございました」

私は紙を握った。

「回収いたします」

裏に、次々と文字が浮かんだ。

三人とも、何かを書いていた。

重なって、読めなかった。

女は続けた。

「故人様の署名がございますので、ご遺族の方へお渡しする書類ではございません」

私はインターホンの通話ボタンを押した。

「弟の時計は、どこにあるんですか」

女が、封筒を持ち上げた。

中で、かすかに音がした。

カチ。

カチ。

「こちらです」

*

机の上で、受取票が震えた。

弟の書いた文字だけが、黒く浮き上がった。

〈元の時刻へ戻してはいけない〉

私は玄関を見た。

ドアの下から、細い紙が差し込まれた。

新しい受取用紙だった。

〈お預かり品 腕時計 一点〉

受取人の欄には、私の名前が印字されていた。

女の声がした。

「お引取りになれば、詳しい経緯をお伝えできます」

机の上に、鉛筆の文字が現れた。

〈それが、いつもの説明です〉

別の人が書いた。

〈私も、何があったか知りたくて受け取りました〉

私は、新しい用紙を拾わなかった。

「受け取りません」

封筒の中の音が止まった。

女が言った。

「弟様が、待っていらっしゃいます」

私は目を閉じた。

会いたかった。

どうしたらよかったのか、聞きたかった。

それでも、答えを変えなかった。

「受け取りません」

*

女は、すぐには帰らなかった。

何度か、弟の名前を呼んだ。

呼び方が、少しずつ変わった。

役所の人間が読むような、名字と名前。

会社で呼ばれていた、名字だけの声。

最後に、私だけが使っていた、子どものころの呼び方。

私は通話を切った。

しばらくして、階段を下りる音がした。

玄関の向こうが静かになった。

*

紙へ、女が来たことを書いた。

すると、誰かが答えた。

〈受取票を返してはいけません〉

〈表は、あなたが受け取った証拠です〉

少し間があって、続きが現れた。

〈裏は、私たちがまだいる証拠です〉

私は紙を斜めにした。

弟の文字が、薄く残っていた。

その下にも、知らない人たちの字があった。

小さな字。

震えた字。

途中で途切れた文章。

鉛筆を持ち、空いている場所へ書いた。

〈最初に注意書きをしたのは、誰ですか〉

三人の返事は、同じだった。

〈分かりません〉

私は紙を裏返しかけて、手を止めた。

隅に、ひどく薄い文字があった。

爪の先ほどの、小さな字。

明かりへ近づけると、読めた。

〈受け取りに来た人が、また一人増えました〉

その下に、一行。

〈私は今日も、お返しするものを間違えています〉

 

 

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