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十月二十九日 本人であることを証明してください

2026年10月29日 21時12分

十月二十九日 本人であることを証明してください

取調室の前に、同じ警察官が二人立っていた。

私は足を止めた。

右の男が言った。

「そいつを近づけないでください」

左の男も、同じことを言った。

顔も、制服も、胸の名札も同じだった。

二人とも、昨日から行方が分からなくなっている同僚だった。

*

異変が起きる前、私は彼と一緒に、榊正一という老人の供述を確認していた。

三十一年前の団地火災。

自分が火をつけたという。

裏付けの取れる話が、いくつもあった。

だが、供述には不可解な部分も多かった。

死んだはずの住人。

同じ顔をした人間。

存在しない部屋。

そして、机の上に置かれた二本の鍵。

老人を任意で聴取している間に、同僚が消えた。

署内のどこにもいなかった。

代わりに、彼によく似た人間が、ときどき廊下を歩くようになった。

呼び止めても返事をしない。

追うと、曲がり角の先に誰もいない。

その夜、署にいた者は、誰も一人で行動しなくなった。

*

右の男が、警察手帳を出した。

左の男も出した。

同じ番号だった。

「本物なら、昨日のことを話してください」

私が言うと、二人とも答えた。

老人を連れて帰った時刻。

取調室で飲み物を出したこと。

同じ鍵が二本あったこと。

すべて一致した。

私は一歩下がった。

二人が、同時に近づいた。

「止まって」

二人とも止まった。

取調室の中から、老人の声がした。

「どちらも、入れないでくれ」

右の男が扉を叩いた。

「私です。昨日、話を聞いたでしょう」

左の男が、私へ顔を寄せた。

「この人、混乱してるんですよ」

私はさらに後ずさった。

そのとき、机に置いてあった無線機が鳴った。

『そちらに、俺がいるか』

同僚の声だった。

私は二人を見た。

どちらも口を動かしていなかった。

*

無線の向こうにいる男は、三号室にいると言った。

建物の中には、失踪者たちが集められているという。

私は彼に、二人の男の特徴を伝えた。

しばらく返事がなかった。

やがて、声がした。

『俺には、そいつらを見分けられない』

私は無線機を握りしめた。

「あなたが本物だと、どう証明できますか」

返事まで、時間がかかった。

『できない』

正直すぎる答えだった。

『俺も、お前が本物か分からない』

廊下の二人が、こちらを見ていた。

右の男が言った。

「そんな無線、切ってください」

左の男は、取調室の鍵を指さした。

「先に、こちらを開けましょう」

私は無線を切らなかった。

「何をすればいいですか」

無線の男が答えた。

『榊さんの話を、最後まで聞いてくれ』

*

老人の姿が見えるよう、取調室の扉は閉めたまま、小窓を開けた。

私は廊下の椅子に座り、紙を膝に置いた。

二人の男は、いつの間にかいなくなっていた。

老人は、机の前に座っていた。

「昨日の続きです」

私が言うと、老人は顔を上げた。

「娘さんが帰ってきたところから、もう一度お願いします」

老人は話し始めた。

行方不明になった娘。

先に見つかった赤い傘。

管理日誌に書いた願い。

そして、午前二時十七分に戻ってきた少女。

「娘ではないと、いつ気づいたんですか」

「お父さんと、呼んだからです」

老人は答えた。

「本当の娘は、私をパパと呼んでいた」

私は書き留めた。

それから尋ねた。

「それだけですか」

老人は黙った。

「ほかに、確かめたことはありますか」

返事はなかった。

「娘さんにしか分からないことを聞いたり、誰かに会わせたりは」

老人は、ゆっくり首を振った。

*

廊下の照明が点滅した。

奥の扉が開いた。

小さな足音がした。

私は振り返らなかった。

「怖かったんです」

老人が言った。

「一度は、抱きしめました。濡れていて、冷たくて、それでも娘が帰ってきたと思った」

小さな足音が、私の後ろで止まった。

「だが、あの子は言ったんです」

老人の口が震えた。

「お父さん、わたしのお部屋はどこ、と」

背中のすぐ後ろで、同じ声がした。

「わたしのお部屋は、どこ?」

私はペンを止めなかった。

「それで、どうしましたか」

老人は顔を覆った。

「日誌に、書いた」

取調室の奥で、紙をめくる音がした。

そこに帳面はなかった。

「三十一号室。入居者、榊美雨」

*

無線機から、息をのむ音が聞こえた。

私は老人を見た。

「団地には、三十室しかなかったんですね」

「はい」

「なぜ、存在しない部屋を書いたんですか」

老人は泣いていた。

「家の中へ、入れたくなかった」

私の背後で、傘の骨が軋んだ。

「娘ではないと思った。だが、追い出すこともできなかった。だから、あの子の部屋を作ったことにした」

「日誌の中で?」

老人はうなずいた。

「それで済むと、思ったんです」

小さな手が、私の肩に触れた。

「聞かなくていいよ」

子どもの声だった。

「この人、嘘つきだから」

私は小窓の向こうを見た。

老人は椅子に座っている。

白い髪。

深い皺。

火傷の残る手。

その人が何をしたか、私はまだ全部知らない。

知るために、ここにいた。

「続きを、お願いします」

私は言った。

*

肩の手が、首へ回った。

冷たい指が、喉を押した。

老人が立ち上がった。

「その人を離せ!」

私は紙を落とした。

息ができなかった。

床に散った供述の記録が、濡れていく。

文字が流れた。

私は最後の一枚を拾った。

老人の言葉が書いてあった。

〈私は、娘ではないと思ったものに、娘の名前を与えました〉

指が、さらに強くなった。

私はその紙を、小窓から押し込んだ。

「確認して」

声が出なかった。

それでも、老人には伝わった。

彼は紙を受け取り、目を通した。

ペンを持った。

震える手で、末尾に署名した。

榊正一。

その瞬間、私の首を押さえていた手が離れた。

私は床へ倒れた。

顔を上げると、小窓の向こうに少女がいた。

取調室の中ではない。

ガラスに映っていた。

少女は、署名された紙を見つめていた。

笑っていなかった。

*

二号室に、無線機の音が響いていた。

私は床に横たわっていた。

そばに、同僚が座っていた。

三号室の住人だった。

彼の胸の名札を見て、私は身を引いた。

彼は近づかなかった。

少し離れた場所へ、無線機を置いた。

老人の声がした。

『受け取りました』

紙の擦れる音。

『私は、これに書かれたことを認めます』

私の手には、ボールペンだけが残っていた。

供述の紙は、老人のところにあった。

無線の向こうで、子どもが叫んだ。

「ちがう!」

初めて聞く声だった。

男の声でも、女の子の声でもなかった。

「わたしは、みう!」

老人はすぐには答えなかった。

長い沈黙のあと、言った。

「その名前は、私が勝手に書いたものだ」

無線の向こうで、何かが割れた。

廊下では、十一号室の男が抱えていた赤い傘から、水が流れ始めていた。

畳まれた生地の間から、小さな声がした。

「……パパ」

 

二号室、入居確認。

残り、二名。

 

 

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