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あなたの落とし物、預かっています 十一月一日 片方だけの結婚指輪

2026年11月01日 21時32分

あなたの落とし物、預かっています

十一月一日 片方だけの結婚指輪

妻の結婚指輪は、骨壺の隣に置いてあった。

小さな白い箱に入れていた。

妻が死んでから八か月。

一度も、そこから動かしていない。

だから、その電話は間違いだと思った。

「結婚指輪をお預かりしております」

昼休み、知らない番号からかかってきた。

女の声だった。

「私のですか」

「奥様のものです」

私は左手を見た。

自分の指輪は、まだ薬指にはまっている。

「どこで見つかったんですか」

「お返しする際に、ご説明いたします」

「そちらは警察ですか」

少し間があった。

「落とし物の保管所です」

電話を切ったあと、携帯電話に住所が届いた。

会社から、歩いて十分ほどの場所だった。

*

保管所は、古い雑居ビルの一階にあった。

窓のない、小さな事務所だった。

扉には店名もなく、曇りガラスに「お受取り」とだけ書かれていた。

カウンターの奥に、灰色の制服を着た女がいた。

年齢はよく分からなかった。

「お電話をいただいたんですが」

女はうなずき、小さな封筒を出した。

中には、銀色の指輪が入っていた。

私は手に取った。

内側に、結婚記念日と、二人の名前が刻まれている。

妻のものだった。

宝石店で入れてもらった刻印には、小さな傷があった。

受け取ったときに気づき、妻が「二人だけの目印になるね」と笑った。

その傷まで、同じだった。

「どこに、落ちていたんですか」

女は受取用紙を差し出した。

「見つかった場所については、お答えできません」

「さっき、説明すると言いましたよね」

「お返しする際に、ご説明すると申し上げました」

私は用紙を見た。

品名。

結婚指輪、一点。

その下に、注意事項があった。

〈受取り後の返却はできません〉

落とし物に、妙な文言だった。

だが、妻の名前が刻まれた指輪を、置いて帰ることはできなかった。

私は署名した。

女が用紙を引き取った。

「こちらは、奥様が落とされたものです」

「妻は亡くなっています」

女は表情を変えなかった。

「存じております」

*

帰宅して、すぐに白い箱を開けた。

空だった。

指輪の形にへこんだ綿だけが残っていた。

私は戸締まりを調べた。

窓も玄関も、鍵はかかっていた。

誰かが入った形跡はなかった。

持ち帰った指輪を、箱へ戻した。

すると、綿が濡れた。

指輪から、水が滲み出していた。

私は布で拭いた。

拭いても、すぐに濡れた。

臭いはなかった。

ただ、ひどく冷たかった。

その夜、保管所へ電話をかけた。

「妻の指輪から、水が出るんです」

女はすぐに答えた。

「乾かさないでください」

「どういう意味ですか」

「そのまま、お置きください」

電話が切れた。

*

午前一時ごろ、食器の音で目が覚めた。

台所で、誰かが皿を重ねていた。

私はベッドの上で身体を起こした。

一人暮らしだった。

妻が死んでから、ずっと。

食器の音が止まった。

冷蔵庫が開いた。

閉まった。

裸足で床を歩く音がした。

ぺた。

ぺた。

寝室の前で、止まった。

私は呼吸を浅くした。

扉の下から、水が流れ込んできた。

廊下の明かりに照らされ、細い筋になっていた。

ドアノブが、ゆっくり下がった。

私は目を閉じた。

扉は開かなかった。

代わりに、女の声がした。

「指輪、どこ?」

妻の声だった。

*

朝になると、廊下は乾いていた。

台所の水切り籠に、皿が二枚並んでいた。

一枚は、私が昨夜使った皿。

もう一枚は、妻がいつも使っていた皿だった。

食器棚の奥にしまったはずだった。

私は白い箱を確かめた。

指輪はあった。

綿が、ぐっしょり濡れていた。

箱の底に、小さな紙が挟まっていた。

保管所でもらった受取票だった。

裏に、文章が印刷されていた。

〈お品物を受け取られた方へ〉

〈落とし主がお訪ねする場合がございます〉

〈必ず、落とされた状態でお返しください〉

私は最後の一行を、何度も読んだ。

落とされた状態。

指輪は、どんな状態で見つかったのだろう。

*

保管所へ行った。

だが、昨日の場所にはシャッターが下りていた。

貼り紙には、貸店舗とあった。

電話をかけた。

女が出た。

「落とされた状態って、何ですか」

私は挨拶もせずに尋ねた。

「指輪だけじゃ、だめなんですか」

女は黙っていた。

「昨夜、妻が来ました」

少し間があった。

「お返しになりましたか」

「いいえ」

「では、また伺うと思います」

私は閉まったシャッターを見た。

「妻は、死んでいるんです」

女が答えた。

「ですから、落とされたのです」

*

妻の指輪を外したのは、私だった。

病院で看取ったあとだった。

看護師に、装身具を預かると言われた。

私は自分で外したいと頼んだ。

だが、指がむくんでいて、抜けなかった。

看護師が石鹸を持ってきた。

私は妻の手を濡らした。

薬指を握り、少しずつ引いた。

妻の身体は、まだ温かかった。

そのときの感触を思い出して、私は携帯電話を持ち直した。

「妻が落としたんじゃありません。私が外したんです」

女が言った。

「そうですか」

初めて、少しだけ声に抑揚がついた。

「では、そのことを奥様にお伝えください」

*

その夜、私は箱を食卓に置いて待った。

午前一時。

台所で、皿の音がした。

見ないようにしていたのに、目が動いた。

妻が立っていた。

病院で最後に見た、薄い水色の服を着ていた。

顔は、こちらへ向いていなかった。

濡れた左手を、胸の前で握っていた。

「指輪、どこ?」

私は箱を開けた。

「ここにある」

妻が振り返った。

その顔を見て、私は立てなくなった。

妻に、間違いなかった。

ただ、目を閉じたままだった。

「私、なくしたの?」

私は首を振った。

「俺が外した」

妻はしばらく黙っていた。

それから、握っていた左手を開いた。

薬指が、なかった。

切れた痕はなかった。

根元から先が、最初から存在しなかったように、なめらかだった。

「じゃあ」

妻が言った。

「そっちも、返して」

私は自分の左手を見た。

薬指が濡れていた。

銀色の指輪の下から、冷たい水が流れていた。

*

翌朝、白い箱は空になっていた。

受取票の文字が、一行増えていた。

〈結婚指輪 一点 返還済み〉

私はその紙を、右手で裏返した。

問い合わせ先の下に、受付番号があった。

一昨日は、こんな番号はなかった。

そして、余白に鉛筆で、小さく書かれていた。

〈次の方へ〉

〈受け取る前に、何と一緒に落ちていたか聞いてください〉

 

 

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