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十月二十八日 私を逮捕してください

2026年10月28日 21時09分

十月二十八日 私を逮捕してください

通報は、クラクションが鳴り続けているというものだった。

住宅地の外れにある空き地。

停まっていたタクシーは、運転席の扉が開いていた。

中に人はいなかった。

ハンドルに、濡れた赤い布が巻きつけられていた。

私は布を外した。

音が止まった。

急に静かになった空き地で、砂利を踏む音がした。

老人が一人、立っていた。

左手に火傷の痕があった。

「運転手さんは、どちらへ」

尋ねると、老人は首を振った。

それから、両手を前へ出した。

「私を逮捕してください」

*

署へ戻る車の中で、老人は同じ話を繰り返した。

榊正一。

元、白雨ヶ丘団地管理人。

三十一年前の十月三十一日、団地に火をつけた。

住人が残っていると知りながら、出口を鎖で塞いだ。

私は後部座席を見た。

老人は窓の外を見ないように、膝へ視線を落としていた。

「なぜ、今になって」

「これ以上、ほかの人を巻き込みたくない」

私は無線で、署へ連絡した。

帰署予定と、任意同行している男の氏名を伝える。

名前を言い終えたところで、無線に雑音が入った。

子どもの笑い声に聞こえた。

老人が顔を上げた。

「名前を、言いましたか」

*

すぐに逮捕できるわけではない。

供述を聞き、当時の記録と照合する必要があった。

私は老人を取調室へ案内した。

同僚が茶を運んできた。

老人は手をつけなかった。

机の上へ、古い鍵を一本置いた。

「これは、私から離さないでください」

「何の鍵ですか」

「団地の通用口です」

私は証拠品袋を用意した。

老人は袋を見て、ためらった。

だが、やがて手を引いた。

「十月三十一日まで、なくさないでほしい」

私は日付を見た。

十月二十八日。

「その日に、何かあるんですか」

老人は、長い間黙っていた。

「今度は、外から開ける」

*

供述は、ひどく具体的だった。

灯油を置いた場所。

鎖を買った店。

火をつける前、誰の声を聞いたか。

私は途中で何度も確認した。

「住人が、人間ではないと思ったんですね」

老人はうなずいた。

「しかし、全員を確認したわけではない」

「はい」

「助けを求める声を、聞いていた」

老人の手が止まった。

机の縁をつかみ、かすかに震えた。

「聞いていました」

その言葉を書き留めていると、取調室の扉が叩かれた。

同僚だった。

「家族の方が来ています」

老人が顔を上げた。

「家族?」

「娘さんだと」

私は老人を見た。

七十代の男だった。

娘がいるなら、もう成人しているはずだ。

同僚が言った。

「小さい子なんですけど」

*

廊下へ出ると、受付の方から足音がした。

ぺたり。

ぺたり。

裸足のような音だった。

私は扉を閉めた。

老人を中へ残し、受付へ向かった。

誰もいなかった。

当直の署員に尋ねたが、子どもなど来ていないと言われた。

「さっき、取調室へ伝えに来たのは誰ですか」

署員は私を見た。

「俺は、ここを動いてないよ」

取調室へ戻った。

老人は、さっきと同じ姿勢で座っていた。

「誰でしたか」

私は答えなかった。

老人が、机の上を指さした。

証拠品袋が、二つあった。

どちらにも、同じ鍵が入っていた。

*

私は同僚を呼んだ。

今度は廊下へ出ず、内線で呼んだ。

二人で鍵を確かめた。

持ち手には「管理人」。

煤のつき方まで同じだった。

「最初から二本あったんじゃないのか」

同僚が言った。

老人は首を振った。

私は、供述を録音していた機器を止めた。

音声を少し戻した。

老人の声が流れた。

「聞いていました」

扉を叩く音。

同僚に似た声。

「家族の方が来ています」

私が席を立つ音。

扉が開き、閉まる。

そのあとに、もう一度、椅子を引く音がした。

取調室には、老人しかいなかったはずだった。

知らない男の声が入っていた。

「どちらを持っていけばいいですか」

老人は答えていなかった。

男が、少し笑った。

「では、置いていきます」

*

取調室の鍵を、外からかけた。

老人自身が、それを望んだ。

窓はない。

扉の上に、明かり取りの小さなガラスがあるだけだ。

私は二本の鍵を、老人の目の届く机へ戻した。

「どちらにも触らないでください」

老人はうなずいた。

「あなたも、私の声だけで開けないでください」

私は扉を閉めた。

同僚が記録を調べる間、廊下に椅子を置いて見張った。

しばらくして、中から声がした。

「刑事さん」

老人だった。

「少し、開けてもらえませんか」

私は扉へ近づいた。

「どうしました」

「気分が悪い」

ガラス越しに、室内を覗いた。

老人は椅子に座っていた。

口を、両手で押さえていた。

声は続いた。

「息が、苦しいんです」

老人は私を見て、必死に首を振っていた。

私はドアノブから手を離した。

*

午前二時十六分。

無線が鳴った。

『榊正一と思われる男を確認。白雨ヶ丘団地跡地付近』

私は無線機を取った。

「対象者はこちらで保護しています」

『左手に火傷の痕。本人も榊正一と名乗っています』

取調室を見た。

老人は中にいた。

『念のため、映像を送ります』

廊下の端の端末に、通知が届いた。

私は席を立った。

画面には、夜の空き地が映っていた。

タクシーの前に、老人が立っている。

左手をカメラへ見せていた。

顔を上げた。

こちらへ向かって、何か言った。

映像の音量を上げた。

「今、誰が見張っていますか」

背後で、椅子を引く音がした。

私は振り返った。

さっきまで私が座っていた椅子に、男がいた。

私の制服を着ていた。

私の顔だった。

男は取調室の扉へ近づき、ガラス越しに中を覗いた。

「私です」

無線機から、私の声がした。

*

三号室の床で、私は無線機を握っていた。

何度呼びかけても、返事はなかった。

やがて雑音の向こうから、老人の声がした。

「誰だ」

私は名乗りかけて、やめた。

取調室で聞いたことを、一つずつ話した。

鍵が二本あること。

娘だという子どもが来たこと。

あなたは、両手で口を押さえていたこと。

老人が、長く息を吐いた。

「そちらへ、行ったのか」

私は目の前の扉を見た。

三号室。

震える指で、無線機を握り直した。

「今、そちらに誰がいますか」

「君と同じ顔の男が、開けろと言っている」

無線の向こうで、扉を叩く音がした。

私の声が、老人を呼んでいた。

私は言った。

「開けないでください」

「分かっている」

「本物の署員が来るまで」

老人は、少し黙った。

それから答えた。

「それが、もう分からない」

扉を叩く音が、急に強くなった。

老人の声だけが、静かだった。

「だが、今度は私が閉じ込められる番だ」

 

三号室、入居確認。

残り、三名。

 

 

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