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十一月二日 留守番電話の声

2026年11月02日 21時35分

あなたの落とし物、預かっています

十一月二日 留守番電話の声

母の声を、忘れかけていた。

顔は写真で見られる。

字は、残してくれた手紙にある。

でも、声だけは残っていなかった。

母が亡くなったあと、古い携帯電話を探した。

動画はあったが、風の音がひどかった。

留守番電話は、機種変更のときに消してしまっていた。

だから、封筒に入っていた紙を読んだとき、私はすぐに電話をかけた。

〈お母様のお声をお預かりしております〉

郵便受けに入っていた。

切手も、消印もなかった。

*

指定された保管所は、駅前の雑居ビルにあった。

細い階段を下りた、地下一階。

曇りガラスの扉に「お受取り」と書かれていた。

カウンターの女が、小さな録音機を差し出した。

手のひらに収まる、古い機械だった。

「こちらです」

「どこにあったんですか」

「以前、お使いになっていた留守番電話の中です」

私は録音機を見た。

再生ボタンが、一つだけある。

「聞いてもいいですか」

女はうなずいた。

ボタンを押した。

雑音のあとに、母の声がした。

『もしもし。お母さんだけど』

息が止まった。

『ちゃんと食べてる?』

間違いなかった。

語尾を少し上げる癖。

電話だと、いつもより高くなる声。

『また、かけるね』

そこで、切れた。

私はもう一度、再生した。

泣いていることに気づいたのは、カウンターへ水滴が落ちたときだった。

女が、受取用紙を差し出した。

私は署名した。

*

家へ帰ると、何度も聞いた。

料理をしながら。

洗濯物を畳みながら。

寝る前にも、枕元で再生した。

『ちゃんと食べてる?』

「食べてるよ」

一人だったから、声に出して答えた。

少し笑えた。

母が生きていたころは、毎回同じことを聞かれるのが面倒だった。

今なら、何度でも答えたかった。

『また、かけるね』

私は録音機を胸の上に置いた。

「うん」

そのまま、眠ってしまった。

*

夜中、枕元で声がした。

『もしもし。お母さんだけど』

録音機が、勝手に再生されていた。

寝返りを打ったとき、ボタンに触れたのだと思った。

『ちゃんと食べてる?』

私は暗闇の中で、機械を探した。

「食べてるってば」

『何を?』

手が止まった。

そんな言葉は、入っていなかった。

録音は、そこで終わらなかった。

『今日、何を食べたの?』

私は明かりをつけた。

録音機は、枕の横にあった。

ボタンには、触っていない。

『また、適当に済ませたんじゃないの』

母の声だった。

怒っているわけではない。

心配するときの、いつもの声。

私は小さく答えた。

「うどん」

しばらく、音がしなかった。

それから、母が言った。

『それだけ?』

*

翌朝、保管所へ電話をかけた。

「録音が変わったんです」

女は黙って聞いていた。

「会話になってるんです。返事をするんです」

「お返事をなさったんですね」

私は録音機を見た。

机の上で、静かにしていた。

「はい」

女が、紙をめくるような音がした。

「お声に返事をされますと、通話になる場合がございます」

私は笑いそうになった。

説明があまりに平然としていた。

「母は亡くなっています」

「はい」

「誰と、つながっているんですか」

女は答えなかった。

代わりに、こう言った。

「お相手から切られるまで、お待ちください」

*

録音機を引き出しに入れた。

仕事へ行っている間は、何もなかった。

帰宅して玄関を開けると、奥の部屋から声がした。

『遅かったね』

私は靴を脱げなかった。

『何時だと思ってるの』

母は昔、同じことを言った。

残業で遅くなった日。

友人と飲んで帰った日。

私は玄関に立ったまま言った。

「仕事だったの」

『連絡くらい、できるでしょ』

「ごめん」

答えてから、口を押さえた。

引き出しの中で、母がため息をついた。

『お風呂、先に入りなさい』

*

食事をした。

風呂にも入った。

その間も、母はときどき話しかけてきた。

冷蔵庫の中の物を聞いた。

部屋を片づけたかと聞いた。

私は、なるべく答えないようにした。

だが、無視していると声が大きくなった。

『聞いてるの?』

『返事しなさい』

最後には、私のフルネームを呼んだ。

子どものころ、叱られるときと同じだった。

私は引き出しを開けた。

「もう、やめて」

録音機をつかんだ。

「お母さんは、こんなにしつこくなかった」

音が止まった。

私は機械を見つめた。

少しして、母の声がした。

『そうだった?』

その言い方が、違った。

似ていた。

でも、母ならそんなふうには言わない。

私は録音機を裏返した。

電池の蓋を開けた。

中は空だった。

*

玄関へ行き、靴を履いた。

録音機は、机に置いてきた。

家を出ようとすると、背後で声がした。

『どこへ行くの』

私は答えなかった。

鍵を持ち、ドアノブに手をかけた。

『こんな時間に、出かけないで』

返事をしなかった。

すると、母が泣き始めた。

『また、お母さんを一人にするの』

私は動けなくなった。

母が入院していたころ。

最後に見舞いへ行った日。

帰り際に、そう言われた。

明日も来るから、と答えた。

次の日には、間に合わなかった。

『明日も来るって、言ったよね』

私はドアノブを握りしめた。

『今度は、ちゃんといてくれる?』

涙が出た。

もう少しで、答えるところだった。

そのとき、机の上で別の声がした。

かすかで、遠い声だった。

『……切って』

同じ録音機からだった。

『電話、切って』

私は振り返った。

大きな声が、すぐに重なった。

『そんなこと言ってないよ』

私は机へ戻った。

録音機を耳に近づけた。

雑音の向こうで、誰かが何度も受話器を叩いていた。

『返事しないで』

母の声だった。

さっきまでとは違う。

私が覚えていたより低く、少し掠れた、晩年の声。

『この人、ずっと聞いてる』

*

私は録音機を持って、台所へ行った。

鍋に入れた。

蓋をした。

その上から、重い水のボトルを置いた。

声は聞こえなくなった。

玄関を出て、近くのホテルへ泊まった。

その夜、携帯電話が一度だけ鳴った。

非通知だった。

出なかった。

留守番電話に、三秒の音声が残った。

『お母さんだけど』

私の声だった。

*

翌日、保管所から封筒が届いた。

受取票が入っていた。

品名の欄を、私は初めてきちんと読んだ。

〈留守番電話に残された音声 一件〉

母の声とは、書かれていなかった。

裏に、鉛筆の注意書きがあった。

〈中身が誰のものかと〉

〈誰が一緒にいたかは、別のことです〉

私は、母が最後に残した言葉を思い出した。

この人、ずっと聞いてる。

今、鍋の中で黙っているのは、どちらなのだろう。

私はまだ、家へ帰れていない。

 

 

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