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十月二十五日 書き直された一行

2026年10月25日 20時53分

十月二十五日 書き直された一行

「消した文字を、読むことはできますか」

老人が差し出したのは、焼けた帳面だった。

表紙には「管理日誌」とある。

私は、古い文書の修復をしている。

水で滲んだ手紙や、黴の生えた記録簿。

読めなくなった文字を調べ、必要なら赤外線で撮影する。

「状態によります。上から塗り潰したものですか」

老人はうなずいた。

「私が消しました」

帳面を開いた。

日付は、一九九五年十月。

後半のページほど、焼け方が激しかった。

紙の縁が黒く縮れ、触れると崩れそうだった。

一か所だけ、黒いインクで何度も塗り潰した行があった。

十月三十日。

その次の日付のページは、白紙だった。

「ここを読めるようにしてほしい」

老人は言った。

「何を書いたのか、覚えていないんですか」

「覚えています」

老人は塗り潰した行を見た。

「だが、その前に何と書いていたか、分からない」

*

斜めから光を当てると、紙に残った筆圧が見えた。

塗り潰しの下に、一行。

そのさらに下にも、別の文字がある。

同じ場所へ、何度か書き直しているらしかった。

私は老人に説明し、帳面を預かった。

「結果が出たら、ご連絡します」

老人は帰り際、扉の前で立ち止まった。

「声に出して、読まないでください」

私は顔を上げた。

「写真に撮るだけなら、構いません。ただ、読み上げないでほしい」

理由を尋ねる前に、老人は頭を下げた。

*

最初に読めたのは、一番上の文章だった。

〈美雨は帰ってこなかった〉

その一行を、黒く塗り潰していた。

私は撮影条件を変え、さらに下の文字を調べた。

〈美雨は帰ってきた〉

同じ筆跡だった。

「こなかった」の文字を削り、その上から「きた」と書いていた。

老人に電話をかけた。

「娘さんについての記録ですね」

「読めましたか」

私は二つの文を説明した。

声には出さず、写真を送った。

老人はしばらく黙っていた。

やがて言った。

「逆です」

「逆?」

「帰ってきたと書いたあとで、帰ってこなかったと、書き直した」

私は画像を拡大した。

紙の削れ方を見る限り、その順序ではなかった。

ただ、この状態では断定できない。

「もう少し調べます」

「まだ、下にありますか」

私は撮影画像を見た。

行の先頭。

二つの文章とは違う位置に、薄い筆圧が残っていた。

「あるかもしれません」

老人の呼吸が、受話器の向こうで浅くなった。

「そこを、お願いします」

*

夜になって、最初の文章が浮かんだ。

インクはほとんど削り落とされていた。

だが、ペン先が紙を押した痕だけは残っていた。

〈美雨が帰ってきますように〉

私は画面を見つめた。

記録ではなかった。

願いだった。

その下に、数文字分の痕があった。

撮影した画像を重ねる。

明るさを調整する。

一文字ずつ、読めるようになった。

〈明日は、いつもどおりの一日に戻る〉

そこで、壁の時計が鳴った。

午前二時十六分だった。

*

作業室の入口に、靴があった。

子ども用の、赤い長靴。

私は廊下を見た。

照明は消えていた。

先ほどまで閉まっていたはずの扉が、少し開いている。

隙間から、水が流れ込んできた。

電話が鳴った。

老人だった。

「何か、分かりましたか」

私は撮影した画像を送った。

数秒後、受話器の向こうで老人が呻いた。

「思い出した」

何かが擦れる音がした。

老人は座り込んだようだった。

「あの晩、警察から捜索を打ち切ると言われた。雨も強くて、暗くなっていた」

私は入口の長靴を見ていた。

右の靴が、ゆっくり向きを変えた。

「日誌には毎日、団地であったことを書いていたんだ」

老人が続けた。

「修理した場所。住人からの連絡。誰が越してきたか。誰が出ていったか」

左の長靴も動いた。

二足が揃って、作業室へ向いていた。

「その日だけ、あったことが書けなかった」

老人は泣いていた。

「娘が帰ってこないと、書きたくなかった」

廊下で、子どもが笑った。

「だから、先に書いた」

*

「今、この帳面に何か起きています」

私は声を落とした。

「長靴が、あります。子どもの」

老人が息をのんだ。

「帳面を閉じてくれ」

私は作業台へ戻った。

開いたページに、水滴が落ちていた。

天井からではない。

紙の内側から、水が浮いていた。

黒く塗り潰した一行が、滲み始めた。

〈美雨は帰ってこなかった〉

インクが流れた。

下から、文字が現れた。

〈美雨は帰ってきた〉

私は帳面を閉じようとした。

ページの間に、小さな指が挟まっていた。

内側から、押し返している。

「閉じられません」

老人が何か叫んだ。

電話が遠くなった。

帳面の次のページが、ひとりでにめくれた。

十月三十一日。

白紙だった場所に、文字が浮かんだ。

〈今日も、いつもどおりの一日だった〉

その下に、同じ文章が増えた。

〈今日も、いつもどおりの一日だった〉

〈今日も、いつもどおりの一日だった〉

ページがめくれた。

十一月一日。

同じ一行。

十一月二日。

同じ一行。

日付だけが先へ進んでいく。

私は電話に叫んだ。

「これ、三十一日で終わっていません!」

老人は答えなかった。

受話器から、紙をめくる音がした。

私の手元と、同じ速さだった。

*

最後のページで、止まった。

今日の日付が書かれていた。

十月二十五日。

〈六号室に、新しい住人が入った〉

私はペンを探した。

これが書かれたことを現実にする帳面なら。

その一行を消せばいい。

私は文字の上から、何度も線を引いた。

紙が破れるほど塗り潰した。

それから、空いた場所に書いた。

〈私は家へ帰った〉

入口の長靴から、裸足の少女が降りた。

いつから、そこにいたのか分からなかった。

少女は私の字を見た。

赤い傘を、ゆっくり開いた。

「それは、まだ起きてないよ」

私はペンを握りしめた。

少女が作業台へ手を伸ばした。

私の手の上に、小さな手を重ねた。

ペン先が動いた。

私の字で、続きを書いた。

〈でも、扉を開けたら違う場所だった〉

*

六号室で、私は帳面を抱えていた。

集まってきた住人に、ここへ来るまでのことを話した。

十六号室だという男が、管理日誌の表紙を見た。

「これが、最初かもしれない」

十三号室の女性が、私の前に紙を置いた。

〈消せませんか〉

私は最後のページを開いた。

黒く塗り潰したはずの文字が、もう一度読めるようになっていた。

〈六号室に、新しい住人が入った〉

その下に、私が書いた文章。

さらに、少女が付け加えた文章。

すべて残っていた。

私は首を振った。

「消しても、下に残ります」

十六号室の男は、長い間、そのページを見ていた。

「それなら」

彼は帳面を、一番初めまで戻した。

焼けた紙を、一枚ずつめくった。

「この団地がまだなかったころの記録も、残っているはずだ」

そのとき、廊下で傘の閉じる音がした。

 

六号室、入居確認。

残り、六名。

 

 

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