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海から届いた手紙

2026年06月26日 16時44分

海から届いた手紙

海沿いの町に住んでいた祖母が亡くなったあと、家の片づけを手伝いに行った。

祖母の家は、港から歩いて五分の古い平屋だった。

窓を開けると潮の匂いがする。
夜になると、波の音がずっと聞こえる。

子どものころは好きだった。

でも大人になってから来ると、その音が少し怖かった。

片づけをしていると、押し入れの奥から木箱が出てきた。

中には、古い手紙が何通も入っていた。

宛名は全部、祖母の名前。

差出人は書かれていない。

封筒はどれも湿っていて、端が波打っていた。

まるで、海水に浸かったみたいに。

俺が一通開けようとすると、母が慌てて止めた。

「それ、読まない方がいい」

「なんで?」

母は少し言いにくそうにした。

「おばあちゃん、昔から言ってたの。海から手紙が届くって」

俺は笑った。

「海から?」

「差出人も消印もないのに、朝になると玄関に置いてあるんだって」

祖母は漁師だった祖父を、海の事故で亡くしている。

遺体は見つからなかった。

その年から、祖母の家には不定期に手紙が届くようになったらしい。

祖母はそれをずっと保管していた。

「じいちゃんからの手紙だと思ってたのかな」

俺がそう言うと、母は首を振った。

「最初はね。でも途中から、怖がるようになった」

その夜。

俺は祖母の家に一人で泊まることになった。

母は用事があって先に帰った。

木箱は押し入れに戻した。

でも、どうしても気になった。

深夜。

波の音がやけに大きく聞こえた。

ザア。

ザア。

ザア。

俺は押し入れを開け、木箱から一通だけ手紙を取り出した。

封筒には、祖母の字ではない、細く乱れた文字でこう書かれていた。

まだ待っている

中の便箋を開く。

紙は湿っていて、指にぬるりと貼りついた。

そこには、短い文章だけが書かれていた。

帰りたい。
でも、誰かが代わりに来ないと帰れない。

俺は気味が悪くなって、すぐに封筒へ戻した。

そのとき、玄関の方で音がした。

コト。

何かが置かれた音。

俺は固まった。

風かと思った。

でも、玄関は閉まっている。

おそるおそる見に行くと、玄関の土間に封筒が一通置かれていた。

濡れていた。

今、海から上がってきたみたいに。

宛名には、俺の名前が書かれていた。

開けるな。

そう思った。

でも、手が勝手に封筒を開いていた。

中にはこう書いてあった。

読んだね。

背筋が凍った。

次の行。

今度は、あなたが返事を書く番です。

その瞬間、家中の電気が消えた。

真っ暗な居間に、波の音だけが響く。

ザア。

ザア。

ザア。

いや、違う。

波の音は、外からではなかった。

家の中から聞こえていた。

台所。

廊下。

風呂場。

畳の下。

家全体が、海の中に沈んでいるみたいだった。

玄関のすりガラスの向こうに、人影が立った。

背の高い男。

濡れた作業着。

顔は見えない。

俺は震えながら言った。

「じいちゃん……?」

返事はない。

代わりに、玄関の郵便受けがゆっくり開いた。

そこから、濡れた指が一本入ってきた。

そして床に、何かを落とした。

ペンだった。

古い万年筆。

祖父が使っていたものだと、写真で見たことがあった。

玄関の向こうから、低い声がした。

「返事を」

俺は後ずさった。

声は祖父に似ていた。

でも、波に溺れたように、ぶくぶくと濁っていた。

「返事を書け」

手紙の便箋には、いつの間にか新しい文章が浮かんでいた。

来てくれる人の名前を書いてください。

俺はペンを拾わなかった。

すると、玄関の向こうの人影が、ゆっくり増えた。

一人。

二人。

三人。

すりガラスの向こうに、何十人もの影が立っている。

全員、濡れている。

全員、こちらを向いている。

そして声が重なった。

「名前」

「名前」

「名前を書け」

俺は耳を塞いだ。

そのとき、母から電話がかかってきた。

出ると、母は叫んだ。

「手紙読んだの!?」

「なんで分かるんだよ!」

「今、うちにも届いたの!」

電話の向こうで、母が泣いていた。

「封筒に、あなたの名前が書いてある。中に、おばあちゃんの字で……」

母は震える声で読んだ。

あの子を海に返してって」

玄関の影が、一斉に笑った。

俺は電話を切り、便箋を破ろうとした。

破れない。

燃やそうとしても、ライターの火がつかない。

そのうち、畳の隙間から海水が染み出してきた。

冷たい水が足首まで上がる。

玄関の声が言った。

「名前を書けば、帰れる」

俺は必死に考えた。

誰の名前も書けない。

でも何か書かなければ、このまま沈む。

俺は万年筆を拾い、便箋にこう書いた。

差出人

その瞬間、家が揺れた。

玄関の向こうの影たちが、急に静かになった。

便箋の文字が黒くにじんでいく。

やがて、すべての手紙が水に溶けるように消えた。

電気が戻った。

水も消えた。

玄関の外には誰もいなかった。

ただ、土間に濡れた足跡が一つだけ残っていた。

家の外へ向かう足跡ではない。

海の方から来て、家の中へ入った足跡。

翌朝、俺は母と一緒に祖母の家を出た。

木箱の手紙は、全部なくなっていた。

もう終わったと思った。

でも昨日、俺のアパートの郵便受けに、濡れた封筒が入っていた。

消印はない。

差出人もない。

宛名は、俺の名前。

中には、たった一行だけ書かれていた。

差出人は、あなたになりました。

 

 

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