可茶菓茶‐ぷりてぃぱーてぃ‐ 湯島 コンカフェ

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ブログ

クソキモい芸術

2026年10月15日 04時04分


センシティブな表現にモザイクをかけています

 

 

今Xでしぬほど炎上してる芸術作品がある。森ビルに展示されているらしい村上隆の作品たちだ。

 

(※注:ガチめのポルノでキモいので、検索はあまりオススメしません。不快になります)

 

一つ目は『ヒロポン』。巨乳のアニメ系美少女が、巨乳からなんかを発射している。そして『My Lonesome Cowboy』。こちらは、だいぶでかいものからだいぶ派手に射精するアニメ絵柄の男。

 

キモすぎてびっくりした!

 

Xの反応:「日本の恥」「エプスタインの仲間だろこいつ」「キモオタエロ男のエロキモ妄想物」etc.……。まあ、共感せざるを得ない。

 

しかし、私は芸術哲学および美学を専攻している哲学修士コンカフェ嬢である。

 

だから、こういうときに困る。

 

感情に任せて「こんなの芸術じゃない!」と言い切るのは簡単だ。でも、それで済ませてしまうのもなんだか悔しい。芸術とは何かを考えてきた人間として、少しくらいは擁護できるのではないか。

 

いや、でもキモいものはキモい。

 

この二つの気持ちが、私の中でずっと喧嘩している。

 

 

・てか、そもそも芸術って何?

 

 

「芸術」と聞いて思い浮かぶのは、モネの「睡蓮」やショパンのノクターン。美しく、心が洗われるような作品だ。

 

私にとっても、多くの人にとっても、芸術とは「美しいもの」や「感動させてくれるもの」なのではないだろうか。

 

もちろん、それも芸術の大切な一面だ。

 

でも、芸術の世界には、どう考えても美しいとは言いがたい作品もある。

 

たとえば、マルセル・デュシャンは、ただの便器を『泉』という作品名で発表した。ほんとにただのちょっと小汚い便器である。

 

「いや、ただの便器じゃん」

 

至極まっとうな反応だ。感性の育ちまくった私だって、トイレを見て感動することはない。

 

しかし、この作品は「そもそも芸術って何?」という問題を突きつけ、芸術を考えるうえで重要な作品になった。

 

特に近代以降、芸術は「美しいかどうか」だけでは評価できなくなっていったのだ。芸術、多様化しすぎ。

 

つまり、芸術は必ずしも美しいものである必要がない。

 

便器ですら芸術になりうるのなら、射精するアニメ男も芸術になりうるのだろうか。

 

 

・キモいものを作る意味

 

 

村上隆の作品に話を戻そう。

 

『ヒロポン』や『My Lonesome Cowboy』は、どうしても性欲や性癖の表明にしか見えない。

 

もちろん、性欲自体は悪ではない。人間は欲望を持つ生き物だし、芸術が人間の感情や身体を扱ってはいけない理由もない。

 

でも、仮に村上隆が「こういうのが好きだから作りました。エロいからです」と言ったら、私はそれを芸術として評価できるのだろうか。

 

個人的な性癖を巨大な彫刻にして、世界中の人が見られる場所に展示する。それは表現の自由なのか。それとも、単なる性癖の公開発表会なのか。

 

(性癖発表会って、あんま公にやっちゃいけないだろ。エロ同人誌ばっかのコミケだってオタクコミュニティで開催されてるじゃん。コンビニの成人向け雑誌コーナーもなくなったし。)

 

 

しかし、作品を作った動機と、その作品が持つ意味は、必ずしも同じではない。

 

昔から女性の裸体は芸術作品に描かれてきた。ギリシャ神話の女神ヴィーナスを題材にすれば、裸体を描くことに文化的な理由がつく。

 

(もちろん、画家が全員、裸の女性を描きたかっただけだと言いたいわけではない。)

 

では、何が重要なのだろう。

 

私は、作品が何を問いかけているのか、ということが一つの手がかりになると思う。

 

村上隆の作品は、単に性的なものとして見ることもできる。しかし、アニメや漫画の性的表現を美術の世界に持ち込むことで、オタク文化と美術の境界を揺さぶる作品として見ることもできる。

 

というか、どうやら村上隆自身も、そうした「エロアニメと芸術の境目ってどこ?」的な意味を作品に込めていたらしい。⬅️ここ重要

 

 

・作者が深いことを考えていれば、芸術なのか

 

 

では、芸術家が立派な意図を持って制作すれば、それは優れた芸術になるのだろうか。

 

いや、作者がどれほど立派なことを語っても、それだけで作品が優れた芸術になるわけではない。作者の意図と、実際に作品が何を表現できているかは別の問題なのだ。

 

逆に、作者が深いことを考えずに作った作品から、鑑賞者が思いもよらない意味を見いだすこともある。

 

つまり、芸術の意味は作者の頭の中だけにあるわけではない。作品を見る人が何かを感じたり考えたりすることで、作者の意図を超えた意味が生まれることもある。

 

もちろん、何かを考えさせられたという理由だけで、どんな作品も傑作になるわけではない。そうでなければ、その辺のゴミだって現代美術の可能性を秘めた作品になってしまう。

いや、なってしまうのかもしれない。怖い。

 

とにかく重要なのは、作者が何を考えたかだけでも、鑑賞者が何を感じたかだけでもなく、作品がどんな意味や問いを生み出しているのか、ということなのだと思う。

 

 

・それでも、私はこの作品を好きになれない

 

 

ここまで考えてきたが、正直に言えば、私は村上隆の作品を見て、素直に「素晴らしい!」とは思えない。むしろ、できれば見たくない。

 

しかし、芸術として認めることと、好きになることは別だ。

 

ある作品が芸術であることと、それを公共の場に展示することが適切かどうかも別の問題である。

 

「芸術だから何でも許される」というのは、さすがに都合がよすぎる!

 

芸術という言葉は、表現を守るために使われることもあれば、批判をかわすための盾として使われることもある。

 

だからこそ、作品を芸術と認めること、その作品を評価すること、そして社会にどう展示すべきかを考えることは、分けて考えたほうがいい。

 

私は村上隆の作品を見て、キモいと思う。その感覚を無理に捨てる必要はない。

 

でも、「キモいから芸術ではない」と言い切ることも、なんだか違う気がするのだ。

 

不快なものを見せることで、私たちが普段は見ないようにしている欲望や偏見、価値観を浮かび上がらせることができるなら、それにも意味があるのかもしれない。

 

もちろん、単に不快なだけの作品だってあるだろう。

 

問題は、キモいかどうかではなく、そのキモさによって何が起きているのか、ということなのだろう。

 

……と、ここまで真面目に考えてきた。

 

最初はただ、「なんだこのキモいのは」と思っただけだったのに。

 

芸術とは何か。作者の意図はどこまで重要なのか。性癖を表現することと、性的な作品を批評することは何が違うのか。美しいものだけが芸術なのか。芸術として認めることは、社会的に肯定することと同じなのか。

 

気づけば、こんなにたくさんの問いが生まれている。

 

いやー。

 

ここまで色々な問いを生み出し、私にあれこれ考えさせてしまったのだから、もう立派な芸術なのかもしれないな。

 

クソキモいけど。

 

(あと、やっぱこれがアートだったとしても、未成年の目に触れるところに飾っちゃいかんだろ! pixivとかでやって!!!)

 

終

 

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