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~怖い話~落語

2026年05月10日 20時19分

『死神の稽古』

うちの師匠は、古典落語しかやらない人だった。

「新作なんざ、百年残ってから古典って呼べ」

そう言って、毎晩のように俺に稽古をつけた。

なかでも師匠が異様に厳しかったのが、
『死神』だった。

貧乏男が死神に助けられ、病人の枕元にいる死神の位置で寿命を見分ける。
足元にいれば助かる。
枕元にいれば助からない。

最後は男自身の寿命のろうそくが出てくる、あの噺だ。

俺は何度やっても、師匠に止められた。

「違う」

「そこじゃねぇ」

「死神はな、人間みたいに喋っちゃいけねぇ」

「もっと、近くにいる感じでやれ」

近くにいる感じ。

それがどういう意味か、俺には分からなかった。

ある夜、師匠は稽古場の電気を消した。

古い長屋を改装しただけの稽古場だったから、夜になると本当に暗い。

師匠はろうそくを一本だけ立てて、俺に言った。

「今日は最後までやれ」

炎が、畳の上にゆらゆら揺れていた。

俺は膝を揃えて、手ぬぐいを置き、頭を下げた。

「えー、死神というものは、どこにでもいるそうでございまして……」

そこまで言ったとき、師匠が小さく咳をした。

見ると、師匠の顔色が悪い。

「師匠、大丈夫ですか」

「いいから、続けろ」

俺は言われた通り続けた。

貧乏男が死神と出会う場面。
医者の真似をして病人の家へ行く場面。
死神を足元から枕元へ動かしてはいけない、という場面。

師匠は目を閉じて聞いていた。

けれど、俺が病人の枕元を指す仕草をした瞬間、
師匠の肩の後ろに、誰かが立っているのが見えた。

暗がりの中だった。

人の形はしている。

でも顔がない。

いや、顔がないというより、
顔のある場所だけが、ぽっかりと暗かった。

俺は言葉に詰まった。

師匠が目を開けた。

「止めるな」

声が低かった。

「噺の途中で止めるな」

俺は震えながら続けた。

「これはいけねぇ、死神が枕元にいやがる……」

そう言った瞬間、師匠の後ろの影が、すっと動いた。

枕元へ。

いや、師匠は座布団に座っているだけだ。
枕なんてない。

それなのに俺には分かった。

あれは師匠の“枕元”に立ったんだ、と。

師匠は満足そうに笑った。

「そうだ」

「今のだ」

それから俺は、最後の場面に入った。

男が死神に連れられて、無数のろうそくが並ぶ場所へ行く。
長いもの、短いもの。
今にも消えそうなもの。

俺は手ぬぐいをろうそくに見立てて、震える指で持った。

「これが、あっしの寿命ですかい……」

そのとき、本物のろうそくの火が、急に細くなった。

稽古場に風は入っていない。

窓も閉めている。

なのに火は、今にも消えそうに小さくなっていた。

師匠が言った。

「消すなよ」

「噺の中で、消すなよ」

俺は息を止めて、最後の台詞を言おうとした。

けれど、その前に。

師匠の後ろの影が、俺の方を向いた。

顔のない暗がりが、こちらを見る。

そして、俺の耳元で、誰かが囁いた。

「おまえの番だ」

俺は悲鳴を上げて、稽古場から逃げ出した。

翌朝、師匠は死んでいた。

稽古場の座布団の上に座ったまま、眠るように。

医者は心不全だと言った。

でも俺は、師匠の右手に握られていたものを見て、声が出なかった。

短く燃え尽きた、ろうそくの芯だった。

それから数年後。

俺は真打になった。

師匠譲りの『死神』は評判になった。

客は言う。

「あんたの死神は本当に怖い」

「高座に出てくるみたいだ」

俺は笑ってごまかす。

けれど、実は分かっている。

『死神』を演じているとき、
客席の最後列に、必ずひとりだけいる。

拍手もしない。

笑いもしない。

顔のある場所だけが、暗い客。

そいつは俺の噺が終わるまで、じっと座っている。

そして最近、ひとつだけ変わったことがある。

高座に上がる前、楽屋で鏡を見ると、
俺の背中の後ろに、そいつが映るようになった。

日に日に、近くなっている。

昨日は肩越しだった。

今日は耳元だった。

次の独演会で、俺はまた『死神』をかける。

チケットは完売らしい。

ありがたいことだ。

でも、ひとつだけ困っている。

さっきから、楽屋の机の上に、
見覚えのない短いろうそくが一本、置いてある。

火もつけていないのに、
ゆっくり、ゆっくり、短くなっている。

 

 

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